さいたま市北区盆栽町の大宮盆栽村などで3日、「第36回大盆栽まつり」が始まった。同まつりは5日までで、盆栽や山野草、関連用品を扱う店が出店するほか、市民が育てた盆栽の展示など、周辺で盆栽関連のさまざまな催しが行われる。
この日は晴天に恵まれ、石畳で知られる同町のかえで通りやもみじ通り、しで通り周辺には朝から大勢の外国人観光客や愛好家らでにぎわった。外国人の中には写真を撮影したり、鉢を一つ一つ手に取って、店の人にどんな盆栽か熱心に尋ねる姿も。盆栽が海外から注目されている様子が見られた。期間中は同区土呂町の市大宮盆栽美術館で特別ギャラリーツアーや小学生の盆栽展示、盆栽技術者による実技と解説講座が行われるほか、同館2階テラスにカフェが開設されている。 4日は「おおみや盆栽春まつり」として、大宮駅東口銀座通りで盆栽展示や和装体験、ステージイベントなどが行われるほか、飲食ブースが出店。同駅東口の「まるまるひがしにほん(東日本連携センター)」では5日まで、新潟県三条市による出店も行われる現在も数件の盆栽園が残る。
1923年(大正12年)の関東大震災で被災した東京小石川周辺の盆栽業者が当時通称「源太郎山」[1]と呼ばれていたこの地に移住して形成された地区である。盆栽業者たちは東京の壊滅を機に、煤煙などで汚染された都心を離れて、盆栽栽培に適した広く、清涼な水・空気のある土地に移ることにした。目をつけたのが関東ローム層(地盤は最高)の良質な赤土に恵まれた、草深い武蔵野の山林地帯であった町村境付近(現在のさいたま市北区盆栽町の南東部)であり、土地一帯を購入して、東京の先進都市を参考に街づくりをはじめた[2]。 投資の不動産シニア世代近い将来、自動車が普及することを考えて、当時の住宅地としては過剰に広い区画道路を碁盤の目に整備した[3]。近くにはあまり知られていないがマンガ会館もあり、道の両側にはさくら、もみじ、かえで、けやきなどの木々が植えられた。また業者と愛好家のための街づくりを趣旨として、移住者に対して、盆栽を十鉢以上保有(たてまえ)、平屋に限る、生垣にする、門戸は開け放つ、などの条件をつけた。当時、何もない場所に民間人が一から町を作り上げた点で、非常に珍しい存在であった。大正14年ごろ、東京から初めの数件が移り住んで盆栽育成に努力すると、地元の業者や愛好者も刺激されて移り住むようになり、昭和3年には盆栽村組合が結成され、以下のような住民協約が結ばれた。
- ここに居住する人は、盆栽を10 鉢以上をもつこと
- 門戸を開放し、いつでも、誰でも見られるようにしておくこと
- 他人を見下ろし、日陰を作るような二階家は作らないこと
- ブロック塀を作らず、家の囲いはすべて生け垣にすること
盆栽町はいまも元気です。住民協定や風致地区もありアパート建設はしずらいエリア、でも人気エリアの為建設できれば賃貸は間違いないエリアです。土呂駅周辺もステラタウン・大型の病院施設西口東口共に栄えてるエリアです。盆栽町内でのアパート建築は難しかもしれませんが、土呂町は狙い目のエリアで大宮から乗車して3-4分たらずの住みやすいエリアで人気です。マンション収益投資不動産のホームプラスサポート投資不動産 戸建賃貸から新築アパートプランはホームプラスサポート